小川 蓮太郎

  

 
 
 
 

人間、死ほど怖しいものはない。といって逃げるわけにはいかない。ではどうすればいいのか? どうしようもなく、こちらは弱いのだ。負けるに決まっている。勝つ方法が一つある。それは永遠に生きる道をみつけること。そこに生きることの価値がある。

 
「画文集 小川蓮太郎」断想より
 
 
 

年譜

1915 2月12日佐賀県杵島郡北方にて父竹一、母ミスエの長男として生る。小学校4年の時、福岡県直方市へ移る。
 
1928 将来画家になることを志し、中学受験を拒否するも両親に説得され福岡県立鞍手中学校(現・鞍手高等学校)に入学。在学中、東京高等師範学校卒業後、直ちに着任された山下巌先生の指導を受ける。
この頃より、セザンヌ、安井曽太郎、坂本繁二郎にひかれる。
4年生になり美校受験を決意する。一般学科の勉強を全く怠りビリに近し。
 
1933 鞍手中学校卒業。東京美術学校(現:東京芸大)油絵科受験。奇跡的合格。中学校よりのストレート合格者3名。その中に生涯の友鳥居雅隆がいた。
 
1934 本科に入り、南薫造教室に学ぶ。
当時、藤島武二教室、岡田三郎助教室などがあったが、南先生の自由な雰囲気にひかれる。教室の件で鳥居と論争。
予科生38名のうち南教室へ10名入る。(うち5名が故人、昭和50年現在)なかに2つ年長の萩原英雄がいて彼のセザニズムの影響を強く受ける。
 
1935 父に、美校を退学しイタリー行きを懇願するも、経済的理由で許されずやむなく在学。
 
1938 東京美術学校卒業。春陽会に10号、1点出品し落選。ライオン歯磨宣伝部入社。この頃より制作上に迷いを生じ、そのため半年にして同社を辞し故郷に帰る。セザニズムよりの脱皮を試みるも叶わず、作品の殆どをつぶす。
 
1941 太平洋戦争始まる。絵具、キャンバスなど極度に不足。作家活動も圧迫される。大政翼賛会のもと、北九州文化連盟の結成に参加する。
この年、母ミスエ死去(45歳)
 
1942 この頃文学を志していた松枝弘と親交を結び影響を受ける。
 
1944 3月、森嘉枝と結婚。
5月、文部省派遣南方軍政要員となりスマトラに渡る。
6月、父竹一死去の報を受く。
 
1945 当時スマトラ中部西海岸州パダン政庁勤務。暗号解読主任をしていたため敗戦をいち早く知り、強いショックを受ける。
 
1946 5月帰国(名古屋港上陸)大阪、広島、八幡など主要都市の惨状に目を覆う。しばらく嘉枝の両親の家に居候。
 
1947 第1回個展を直方市坂田画廊にて開くもなお、セザンヌ調から抜けられず低迷する。仏壇を売るほどの貧にたまらず春日原米軍第5戦闘隊の美術要員となる。この頃久留米市梅満町古賀病院の2階に移る。
 
1948 制作進展せず米軍勤務をやめる。久我五千男氏を知り種々援助を受けるも貧甚だし。
長女美枝生れ、赤子を背に嘉枝石鹸の行商をする。作品「古賀氏令嬢」その他静物数点、その殆どを部屋代に渡す。この年同志と九州美術を結成する。
 
1950 この年、故手島貢氏の世話にて西南学院に勤む。2女桐子生る。
 
1951 福岡市名島海岸に波左間実美氏の好意でアトリエを作る。学院時代の作品「美枝像」の水彩4,5点のみ、油彩はほとんどつぶす。
 
1953 長男卓、2男克生る。変わらず貧。友人来訪すれど魚なし、急ぎ名島海岸でアサリ貝を拾う。
 
1960 福岡市別府団地へ移転する。
 
1963 48歳。谷底に飛びこむ思いで西南学院を辞す。
福岡市岩田屋で個展。ようやくセザンヌ調よりの脱皮。その年第1回渡欧。
 
1964 福岡市新天画廊にヨーロッパ風景60点を展示。100号の「アテネの丘」ノートル・ダムなどを発表。
 
1965 福岡市フォルム画廊個展。
「サン・マルコ」「アテネの門」「セーヌ河」「トレドの丘」その他30点を発表。
 
1966 福岡市フォルム画廊で100号の「アテネ」「マドリード」など他小品40点を発表。
 
1967 エジプト、イスタンブール、南欧への旅。
この秋、福岡フォルム画廊で「シャトル」「ペルージア」など30点を発表。
九州造形短大教授となる。
 
1968 春、福岡フォルム画廊個展。ヨーロッパ風景、花などの小品、水彩、デッサンを発表。
秋、東京フォルム画廊に「ペルージア」「ヴェネチア」「アッシジ」「サン・マルコ」「トレド」など11点発表。
 
1969 朝日福岡文化センター洋画教室講師となる。福岡フォルム画廊で、人物を中心に水彩を含めて40点を発表。
 
1970 春、福岡サン画廊開設記念に「シャルトル大聖堂」「ポン・マリ」など油彩20点余を発表。
6月、福岡フォルム画廊で博多風景展。秋、同画廊で裸婦を中心に風景、花など29点を展示。「トレドの丘」100号も同時に発表する。
 
1971 2月、筑紫野市山家にアトリエを建て移る。
4月、南欧に旅立つ。夏、チャリティーショウのためハワイ旅行。
秋、福岡フォルム画廊で水彩70点(ヨーロッパ風景)を発表。
 
1972 7月、崖くずれのため住家半壊す。
12月、東京、柳屋画廊で60号の「トレドの丘」「シャルトル」「裸婦」など22点発表。
 
1973 サン画廊で小品20点を発表。秋、東京、柳屋画廊で裸婦を中心に、「暮色」「ナイルの朝」30点を発表。
 
1974 春、南仏の旅へ。サン画廊で水彩によるローヌ河、ロアール河の周辺風景、グラン・ショミエールの裸婦(淡彩)など40点を発表。
 
1975 1月、福岡東亜画廊で「南仏風景」「裸婦」など油彩50点を発表。逆光の作品多し。
5月、新天町おいし画廊で「色紙展」。
6月、サン画廊で油彩小品20点を発表。
9月、西洋美術史の旅を同好者と共にギリシャ、イタリー、スペイン、ドイツ、オランダ、パリと続け帰国。
小川蓮太郎画集の編集にかかる。
 
「画文集 小川蓮太郎」 年譜より転載

 

 

 
 
 
 
 
 
 
1976 「画文集 小川蓮太郎」限定600部発行。
発行・小川蓮太郎画文集出版会 編集・内田真司 写真・佐伯正治 意匠・田辺輝男 印刷製本・凸版印刷株式会社
 
1979 夏、サン画廊にて個展。 
享年64歳。

 
 
 
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